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60年に一度の遷宮も一昨年終わりました。報道等により多くの方が出雲大社のことをよく耳にされたことと思います。私が生まれ育った島根県、出雲大社のこの時代のことが後世に伝わればと思い、このホームページを立ち上げることといたしました。
  

 
  

出雲大社

一般的には「いづもたいしゃ」とよばれていますが、正式には「いづもおおやしろ」と読みます。

御祭神

御祭神は、出雲王朝を繁栄させるという偉業を成した王で、大きな袋を肩にかけ、ずきんを被り、右手に打出の小槌を持って米俵の上に立つ、あの人懐こいお姿の大国様として馴染みの深い、『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』です。
大国主大神には、他にも「大己貴神(おおなむちのかみ)」、「大物主神(おおものぬしのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「大国魂神(おおくにたまのかみ)」、「顕国魂神(うつしくにたまのかみ)など多くのご神名があります。ただし、いわゆる〝七福神〟の中の「大黒天」とは、正確には別の神様です。
大国主大神は、ヤマタノオロチ伝説で知られる素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子孫で、多くの兄弟の末っ子として出雲に生まれました。
神話の「因幡の白うさぎ」の話でも有名です。こちらの物語は後半に書いておきますので、興味のある方はお読みください。
そして大国主大神は多くの女神と結婚し、多くの子供をもうけます。縁結びの神様というのもうなずけます。
大国主大神はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれました。それはすべてのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれました。
『日本書紀』の記録によると、大国主大神はこの国づくりの大業が完成すると、日本民族の大親神である天照大御神に、その豊葦原の瑞穂国をお譲りされたとあります。天照大御神は大国主大神の私心のない「国譲り」にいたく感激され、大国主大神のために天日隅宮(あめのひすみのみや)をおつくりになり、第二子である天穂日命を大国主大神に仕えさせられました。
この天日隅宮が今の出雲大社であり、天穂日命の子孫は代々「出雲國造」と称し、出雲大社宮司の職に就いています。現在は第八十四代出雲国造千家尊祐宮司がその神統と道統を受け継がれています。
出雲の国は、神の国、神話の国として知られています。その“出雲の国”には、今もなお古の神社がいたるところにあります。そして、その中心が「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」をおまつりする出雲大社(いづもおおやしろ)です。

創建年

創建年は不明です。一説によれば、創建年は神代とされています。
日本の神話を記した『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)には、国譲り神話として出雲大社の創始にかかわる伝承を伝えていますが、神殿成立の記録上の上限としては、斉明天皇5年(659)に「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」として神殿を修したことが記されていますので、それ以前の創建となることが読み取れます。

御本殿

御本殿(ごほんでん)は、大国主大神さまがお鎮まりになっておられ、大国主大神さまの御事蹟に対して建てられた宮です。高さ約24メ-トルの偉容は、御神徳(ごしんとく)にふさわしく比類のない大規模な木造建築の本殿です。「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式の御本殿は、現在国宝に指定されています。御本殿をつつむかのようにそびえる八雲山(やくもやま)を背景にした姿は、たくましい生命力を感じさせ、見るものに感動を与えます。
御本殿は、「大社造り」と呼ばれる様式で、日本最古の神社建築の様式を今に伝えています。御本殿の柱はすべて円柱で、現在は礎石の上に立っていますが、近世に至るまでは、根元を土中に埋めた掘立柱式でした。
殿内は、平面にすると、ちょうど「田」の字のようになっており、九本の柱によって支えられています。その中心には、心御柱(しんのみはしら)とよぶ太い柱があり、正面と背面の中の柱を、宇豆柱(うずばしら)と呼んでいます。
心御柱と向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に御内殿(ごないでん)があります。そこに大国主大神さまが鎮まっておられます。この御内殿は、正面に向かっておらず、横向き(西側)に向かって鎮座されています
屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で、棟には千木(ちぎ)と勝男木(かつおぎ)三本とがのせてあります。
本殿の天井には、雲の絵が描かれています。この雲は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)が「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに八重垣作る その八重垣を」と詠われたことによるとされますが、日本の神話には、天から神が降られる時には、雲をかきわけて降られたと記されています。雲は、天上の神の世界との境界を表わすものといえるのではないでしょうか。御本殿の雲もまた、そうした天上界とのつながりを表わしたものだといえるでしょう。

本殿の高さ

平安時代、子供の教科書であった『口遊』(くちづさみ。970年)には、建物のおおきさのベスト3を掲げ「雲太・和二・京三」と記し、「雲太」とは〝出雲太郎〟の略で、出雲大社の神殿のことと言い、〝大和二郎〟の彼の東大寺大仏殿より大きかったと明記しています。このように、古代出雲大社の御本殿は高さ16丈(約48メートル)を誇る高大なものでした。そのため、古代の文献記録にはしばしば「社殿顛倒」のことが記されています。その高大な御神殿の平面図の「金輪御造営差図」が宮司家の千家家に伝蔵され、この時代の御造営を「金輪の御造営」と言い伝えていますが、他方、こうした御造営に関わります古文書記録には、出雲大社の御本殿をして「天下無双の大廈(たいか)」と称えています。  建久元年(1190)頃、参詣した寂蓮法師(藤原定長)は、〝雲太〟の御神殿を仰いで、「出雲大社に詣でて見侍りければ、天雲たな引く山のなかばまで、片そぎのみえけるなむ、此の世の事とも覚えざりける。やはらぐる 光や空にみちぬらむ 雲にわけ入る ちぎのかたそぎ」とその壮大な様に感歎して詠じました。  
平成12年の春、境内の八足門(やつあしもん)前より松の参道に絶え間のない行列が続きました。「金輪御造営差図」に伝えられます高さ16丈(約48メートル)時代の御神殿の御柱が顕現し、その御柱は祖先の伝えの通りの巨木3本を束ねて一本の御柱(約3メートル)としたものでした。この御柱をひと目拝もうとするおびただしい人々の列で、恰も〝蟻の熊野詣で〟を髣髴させるものでした。  こうして、言い継ぎ語り継がれた〝3本束ね柱〟の御柱9本をもって御造営された「金輪御造営差図」御神殿実在を、天下に白日の下に明らかにしました。高大ゆえに、この御柱の根元はおびただしい量の礫によって突き固められ、長さ1町(約109メートル)にも及ぶ階段が附設されていました。高大な御神殿は、それゆえに幾度となく「顛倒」しました。しかし、〝おかげ〟に結ばれる人々は、倒れても倒れてもなお大國主大神様のお住まいをと御造営を継ぎ伝えました。
その後、鎌倉時代頃から規模を縮小し、現在の本殿は、高さ八丈(約24メ-トル)で、延享元年(1744)に造営されたものです。
高さ約48メートルといえば、15階建てのビルに匹敵する木造建築物となるのです。

正式な参拝方法

出雲大社にある4つの鳥居は「鉄筋コンクリート製」、「木製」、「鉄製」、「銅製」とそれぞれ全部違った素材でできています。
まず本殿から一番遠くにある鳥居が神門(しんもん)通りの大鳥居、次に勢溜(せいだまり)の正面鳥居、下り参道の先・松並木の参道の鳥居、本殿に一番近い場所にある鳥居が拝殿前の銅鳥居となります。
出雲大社の正しい参拝は、これらの4つの鳥居のうち一番大きい神門通りの大鳥居(鉄筋コンクリート製)から始まります。
神門通りの大鳥居は、宇迦橋(うがばし)のたもとにあり、高さが出雲大社の本殿より1m低い23m、柱の周囲は6m、中央部の額は畳み6畳分の大きさがあります。
鳥居は神社の玄関であり大変に神聖なものです。鳥居の下を通る時は中央を避け、少し左右に寄り軽く一礼してから通るようにしましょう。
神門通りの大鳥居を通り、たくさんのお店が立ち並ぶ表参道・神門通りを抜けると、勢溜の正面鳥居(木製)が目の前に見えてきます。勢溜の正面鳥居の回りは昔、大きな芝居小屋などが建ち非常に賑わっていたそうです。人の勢いが溜まるところから勢溜という名が付いたとされています。
勢溜の正面鳥居を通り過ぎると、本殿に向かって「下り参道」が続いています。
この「下り参道」を暫く歩くと、その中ほど右手方向に社が隠れています。注意しないと見過ごすくらいに小さな社です。ここは「祓社(はらえのやしろ)」と言われており、私たちが知らぬ間に犯した心身の汚れを祓い清めてくれる場所です。最初にここで心身を清めてから出雲大社に参拝しましょう。
「下り参道」を通り過ぎると、今度は樹齢400年を越える「松の参道」が見えてきます。
松の参道は3つの路に分かれており、真ん中の路は昔、身分の高い人だけが通ることを許されていたそうです。今は松を保護するために通行が禁止され、両脇を歩くように注意書きの看板が立っています。
松並木の参道の鳥居(鉄製)を通り、玉砂利の上を本殿に向かってさらに足を進めると、左手に「手水舎(てみずや)」が見えてきます。柄杓(ひしゃく)を使い、手と口をここで清めてください。お清めが終わり気持ちを静めれば、いよいよ拝殿前の銅鳥居(銅製)を通りご神前に進み出て参拝です。
まず、ご本殿前の八足門(やつあしもん)にてご本殿をお参りいただき、ご本殿周辺の垣(瑞垣―みづかき)を左回り(時計と反対回り)に進んでいただき、各ご社殿をお参り下さい。拝礼作法は、すべて「2礼4拍手1礼」です。
一般的には「2礼2拍手1礼」ですが、出雲大社の正式な参拝作法は、二度拝礼して四回拍手(かしわで)打ち最後にまた一回拝礼する「2礼4拍手1礼」となります。ご本殿以外のご社殿をお参りの際にも、この作法にてご参拝下さい。
お祈りは自分の住所、名前を心の中で言った後にお願い事をします。
4拍手をする理由ですが、出雲大社で最も大きな祭典は5月14日の例祭(勅祭)で、この時には8拍手をいたします。数字の「8」は古くより無限の数を意味する数字で、8拍手は神様に対し限りない拍手をもってお讃えする作法です。ただし、8拍手は年に1度の例祭(勅祭)の時のみの作法としています。平素、日常的には半分の4拍手で神様をお讃えする4拍手の作法としていますが、お祈りお讃えするお心に差はありません。
4つの鳥居を通り心を整えて出雲大社に参拝すれば、きっとあなたの願い事は叶い良いご縁に巡り会うのではないでしょうか。
以前はコインを投げてしめ縄に刺されば運が良いという占いのようなものがありましたが、現在は禁止されています。
理由は至極簡単で、しめ縄は神様がお鎮まりになる御神域を示し結界する神聖なものです。その神聖なしめ縄にお賽銭を投げ入れるという行為は、神様に対して失礼にあたることです。従って縁起が良いことではありません。
余談になりますが、参道を抜けると、緑青色に輝く銅鳥居があります。銅製の鳥居であるが故に、いつの頃からかこの銅鳥居を触りながら回ると「金まわりが良くなる」とガイドの方の案内を聞く事があります。これまた同様におもしろおかしく案内しようとする創作です。出雲大社に古からある信仰ではないとのことです。

神在り祭

一般に旧暦10月を「神無月」と申しますが、これは全国の村々里々にお鎮りの神々が、1年に1度、目には見えない「神事(かみごと)」を司られる「大國主大神」さまがお鎮りになります出雲大社にお集いになられ、人々の“しあわせ”の御縁を結ぶ会議「神議(かみはかり)」がなされる故事に由来します。それゆえ、古くより出雲地方では旧暦10月は神さまがお集いになられる月ですので「神在月(かみありづき)」と申しております。
全国の神々が出雲大社にお集いになられる“出雲神在”。出雲大社の西方約1キロの稲佐の浜では全国の神々をお迎えする古式豊かな「神迎(かみむかえ)神事」が執り行われます。
この神秘の神事の後、ご到着された神々は御使神「龍蛇(りゅうじゃ)神」さまをご先導として出雲大社まで御神幸なされます。そして、神楽殿にて奉迎の神迎祭がお仕えされます。この御神幸のお供の方には「神迎御幣」をお授けいたします。どうぞ、神々をお迎えされお供をお仕えされて“出雲神在”の奇しき御神縁をお結び下さい。祭典の後、八百万の神々は本殿両脇にある東西の十九社を宿とし、出雲で一週間、人生諸般の事などについての会議「神議(かみはかり)がとりおこなわれます。
翌日以降数日、御本殿において「神在(かみあり)祭」が斎行されます。出雲大社の御祭神でいらっしゃいます「大國主大神」さまは目にはみえない「神事(幽事)」を主宰される大神さまであり、人々の“しあわせ”の御縁を結ばれる神さまとして広く世に知られています。「神在祭」ではお集いになられた神々の大会議「神議(かみはかり)」の主宰をおつとめになられます。"神在”期間中には神々のご先導をおつとめになられる「龍蛇神」さまの奉拝がなされます。また、神々の会議場となります上宮(仮の宮)では日毎にお祭りがお仕えされます。

八雲立つ

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が詠んだとされ、日本初の和歌といわれる、この歌の意味は?この歌は、古事記に記載されている、日本最古の和歌といわれています。
八雲立つ 」は出雲の枕詞です。
現代語にすると次のようになります。
雲が何重にも立ちのぼり、雲が湧き出るという名の出雲の国に、
八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼる。
妻を籠らすために、俺は宮殿に何重もの垣を作ったけど、
ちょうどその八重垣を巡らしたように。

御砂

瑞垣の外、ご本殿後方の八雲山裾に鎮座の「素鵞社(そがのやしろ)」です。このご社殿の床縁下の御砂をいただき帰って御守としたり、また屋敷の土地、あるいは田畑に撒き清めて神様のご加護をいただくという信仰が古くからあります。
これは、ただいただいて帰るだけではいけません。まず、日本海に臨む稲佐の浜(出雲大社より西へ約800メートル)の浜辺の砂を掻き採って素鵞社をお参りし、稲佐の浜で搔き採ってきたその砂を床縁下に置き供え、そして、従来からある御砂をいただいて帰るというものです。
なお、素鵞社は平成25年9月より平成26年10月までご修造(修理)が行なわれるため、この期間、神様には「釜社」を御仮殿としてお遷りいただいております。素鵞社御仮殿でもあります釜社に御砂を納めた唐櫃を奉安しておりますので、そちらの御砂をおいただき下さい。

遷宮

「遷宮」とは、本来、神様を従来のご社殿から新しいご社殿へお遷しすることを「遷宮」と言っております。しかし歴史的実際には、元の場所にそのまま全面的に建て替えたり、既設ご社殿をご修造(修理)する際にも、一度、神様には仮のご社殿に遷っていただけなければなりませんので、「遷宮」の形となります。
 出雲大社の場合、現在のご本殿はじめ境内の摂社・末社は延享元年(1744)のご遷宮の時の造営で、それまでは遷宮年のたびに隣地に建て替え造営が行なわれ繰り返されてきましたが、以後の遷宮年はご修造による遷宮としています。ことに、近代以降は、歴史的文化財建物「国宝」指定され、後世に伝える重要な使命をもってご修造遷宮を行なっています。
 このご遷宮とは、ただ単にご神殿の佇まいを新たにするということではなく、それによって神様の御力が清新に若々しく蘇るー蘇生再誕をされるという重要な意味合いがあります。その御力を祈り、私たちも幸せのための〝生き直しの蘇生再誕〟のご縁に結んでいただくのです。このたびの「平成の大遷宮」は、ご社殿の全面的な建て替えではなく、お屋根替えを中心としますご修造(修理)です。本年、平成25年の3月までに、大国主大神様のお住いのご本殿をはじめ、ご本殿を囲む2番目の垣である瑞垣より内側のご社殿などのご修造を行ないました。今後は、この瑞垣の外側の境内、また境外のご社殿などのご修造を逐次に行ない、すべてのご修造が終了するのは平成28年の3月です。

いなばの白うさぎ

出雲の国にだいこくさまという神様がいらっしゃいました。 その神様はおおぜいの兄弟があり、その中でもいちばん心のやさしい神様でした。 兄弟の神様たちは因幡の国に八上比売(やかみひめ)という美しい姫が いるという噂を聞き、みんなで会いに行こうと決められました。 だいこくさまは兄弟達の家来のように大きな袋を背負わされ、一番後からついていくことになりました。
兄弟たちが因幡の国の気多の岬を通りかかったとき、体の皮を剥かれて 泣いている一匹のうさぎを見つけました。 兄弟たちはそのうさぎに意地悪をして、海水を浴びて風にあたるとよい と嘘をつきました。 そのうさぎはだまされていることも知らずに、言われるまま海に飛び込 み、風当たりのよい丘の上で風に吹かれていました。 そうしていると海水が乾いて傷がもっとひどくヒリヒリ痛みだしまし た。
前よりも苦しくなって泣いているうさぎのところに、後からついてきた だいこくさまが通りかかりました。 だいこくさまはそのうさぎを見てどうして泣いているのかわけを聞きま した。 そのうさぎは言いました。 わたしは隠岐の島に住んでいたのですが、一度この国に渡ってみたいと 思って泳がないでわたる方法を考えていました。するとそこにワニ(サ メ)がきたので、わたしは彼らを利用しようと考えました。 わたしはワニに自分の仲間とどっちが多いかくらべっこしようと話をも ちかけました。
ワニたちは私の言うとおりに背中を並べはじめて、私は数を数えるふり をしながら、向こうの岸まで渡っていきました。 しかし、もう少しというところで私はうまくだませたことが嬉しくなっ て、つい、だましたことをいってしまいワニを怒らせてしまいました。 そのしかえしに私はワニに皮を剥かれてしまったのです。 それから、私が痛くて泣いていると先ほどここを通られた神様たちが、 私に海に浸かって風で乾かすとよいとおっしゃったのでそうしたら前よ りもっと痛くなったのです。
だいこくさまはそれを聞いてそのうさぎに言いました。 かわいそうに、すぐに真水で体を洗い、それから蒲(かま)の花を摘ん できて、その上に寝転ぶといい。 そういわれたうさぎは今度は川に浸かり、集めた蒲の花のうえに、静か に寝転びました。 そうするとうさぎのからだから毛が生えはじめ、すっかり元のしろうさ ぎに戻りました。 そのあと、ずい分遅れてだいこくさまは因幡の国につかれましたが、八上比売(やかみひめ)が求められたのは、だいこくさまでした。

国引き神話

その昔素戔鳴尊(すさのおのみこと)は、出雲の国を経営なされ、子孫も次第に増え、その御一門は非常に盛んになりました。ここに素戔鳴尊の四代の孫で八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)と呼ばれる神様は、国土の経営に就いてご苦労を積まれたのであります。  はじめ伊邪那伎(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の神様が、御苦心の末にお産みになった日本の国は、いまだ幼く国が小さいばかりか、足りないところもありましたが、その子孫の神々はよく二柱の神様の御志を継がれて、たえず国土の修理を心がけられ、足らぬところを補われ、損じたところをつくろわれて、次第に立派な国となったのであります。  ところが素戔鳴尊の経営なされた出雲の国はまだ小さい国であるばかりか、帯のようにその幅が狭いので、ある時八束水臣津野命がとくとこれをご覧になって、「どうにもこれではあまりにも狭い、こんなに狭くては思うように大きな事業が出来ない。他の国に余ったところがあれば縫い足すようにしていかなくては」とお考えになりました。  さっそく海岸に出て一段高い山の上によじ登って立ち、小手をかざしながら「さてどこかに国の余りがありそうなものじゃ」と、はるか彼方に雲か山かと見えるのは新羅のみ崎でありました。  命(みこと)は、こおどりして喜ばれ、「あれは確かに新羅のみ崎じゃ、あれをこの国に縫い足せば、いくらか広くなって人々もさぞ喜ぶだろう。よしよし、すぐに取りかかろう」と、にわかに人々を駆り集められました。  そして大きな広い鋤(すき)で、新羅の余りの御崎をザクリザクリと鋤取られ、大縄をこれに打ちかけて、そろりそろりと引き寄せながら、命は「国来い国来い、こちらへ来い」と音頭取りをしながら、だんだんと綱をたぐりよせられました。こうして首尾よく縫い合わされたのが、取りも直さず杵築のみ崎であります。  こうして新羅のみ崎は杵築のみ崎となりましたが、この時綱をつなぎ止めるために立てた杙(くい)は出雲と石見とのさかいにある佐比賣山(さひめやま)(三瓶山:さんべさん)となり、またたぐり寄せた綱は園の長濱という砂浜となって、今も大社の稲佐の小浜から石見までの東西に延びた海辺となって続いています。
さて、これで出雲の国もだいぶ大きくなったのですが、それでもまだまだ国を引き寄せなくてはならないようです。そこで命は再び海岸の山の上に登られて北の方をご覧になりました。すると、はるか海の彼方にかなり広い陸地が見えるので、命はたいそうお喜びになり、「オオ、あそこにも国の余りがあるようだ。あの辺りの土地を少し切り取って縫い付けるとしよう」と仰って、大きい鋤でザクリザクリと鋤きとられ、そこに大縄を打ちかけて再び「国来い、国来い、こちらへ来い」と音頭を取りながら、その大縄をそろりそろりとたぐり寄せました。すると、そこが狭田(さた)の国(島根半島中央部)になりました。  命は再び北の方をご覧になると、「あそこにも国の余りがあるではないか。よし、今度はあの国を引き寄せてやろう」と大縄を打ちかけて、またまた「国よ来い、国よ来い」と大縄をたぐり寄せ始めました。すると、そこが闇見(くらみ)の国になりました。  こうして出雲の国もほぼ完成に近付きました。そして、命は最後に東の方をご覧になると、高志(こし)の都々(つつ)のみ崎(能登半島辺り)の方に余っている土地を見つけられました。そこでまた同様にして大縄を打ちかけて「国よ来い、国よ来い」とたぐり寄せられました。こうして首尾よく縫い合わされたのが、三穂の崎(美保関)であります。  そして、このときに打ちかけた大縄は夜見(よみ)の島(弓ケ浜)となり、大縄をつなぎ止めた機は伯耆の国の火神岳(ひのかみだけ、伯耆大山)となったのであります。  広大な出雲の国をお造りになられた命は、これでやっとお仕事を済まされて、ホッと一息つかれました。しかしながら、さすがに怪力の命も何せ四度にわたる国引きでありましたので、だいぶお疲れのご様子でした。そして、「ヤレヤレ、まず安心した。国引きも思うようにできたし、出雲の国も充分広くなった。これなら大きな事業もできるであろう。何とはなしに心がのびのびして愉快じゃ。今、国引きが終わったぞ」と仰せになり、とある森の木陰に神の御杖を突き立てて「オウ」と声高らかにお喜びになったのでありました。そこで、後にこの地を意宇(おう)と呼ぶこととなりました。現在の島根県松江市南郊で、かつて国府の所在した大庭(おおば)の地がこれで、意宇の杜があります。  神々のふるさとであります出雲の国は、このように八東水臣津野命の「国引き」という大きなご功績によって、その基盤が築かれたのでありました。この後は、いよいよ大国主大神(だいこくさま)によって、より一層すばらしい国に造られていくのです。 (出雲大社教の幽顕社発行『幽顕』より)
八東水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)は、国が狭いために様々な所から国を引き寄せられ、広大な出雲の国をお造りになりました。さて、ここからはいよいよ大国主大神(だいこくさま)のご活躍の場です。 多くの神々の力を借り、様々な苦難を乗り越えられ、そして国土の主である大国主大神へと立派にご成長されるのです。


紹介文等の引用について

出雲大社様にご承諾いただいた上で、公式ホームページに記載された紹介文等を一部引用させていただいております

ホームページ作者のご紹介

島根県、浜田市在住の古田亨(ふるたとおる)です。

第一回目のあとがき

作り始める時には、玄人受けするような難しいことを調べ上げて、ホームページを作る予定でしたが、まずは誰でも簡単に読み取れるレベルのものから作り始めることに方向転換しました。従いまして、今回はガイドマップ的な位置付けのものとなってしまいました。今後どのように展開するかは、皆様からの反響を見ながら決めていこうと思っています。もしかしたら、詳しい歴史書レベルにするのであれば、別のサイトとするかもしれません。皆様のご意見をお聞かせいただけたら幸いです。なお、すべての方に返信等の対応はできないかもしれませんので、ご了承ください。
また、こんな記事を載せてくださいとかありましたら、連絡いただければ検討させていただきます。なお、この場合は著作権対策を施した状態の文章のみの受付とさせていただくとともに、掲載の場合には実名やペンネーム等は一切記載しない条件となりますことを、事前にご了承いただきたく存じます。
よろしければ、島根を写真で見て歩記や石見神楽を写真で見て歩記もご覧ください。
敬具

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2014年2月6日
サイトUPしました。